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三田尻塩田の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年9月1日更新

260年にわたり日本の塩業を支えた三田尻塩田

瀬戸内海の干拓と入浜式塩田

防府市は、波の穏やかな瀬戸内海の沿岸にあり、近世以前の市域では揚浜(あげはま)塩田、入浜(いりはま)系の古式入浜の2つの製法で製塩が行われていました。
近世初期以降、萩藩は瀬戸内海沿岸で干拓を行い、元禄12年(1699年)に築造された古浜をはじめ、中浜、鶴浜、大浜、江泊浜、西浦浜の「三田尻六ヶ所浜」が見事な「入浜式塩田」として築かれ、三田尻塩田としての体制が整います。

国内第二位の大製塩地

7代目藩主、毛利重就公の時代には、藩内の殖産興業にはげみ、塩業者201軒、塩の生産は36万石に達し、防長両国(周防・長門)での生産の半ばを占め、「瀬戸内十州塩田」においても「播州赤穂」に次ぐ大製塩場として、日本の塩制史上大きな役割を果たしました。
三田尻の塩は主に山陰、北陸、東北地方に向けて「北前船」で積み出され、東北地方では塩のことを「みたじり」と呼んでいたとも伝えられています。さらに寛政12年(1800年)には、ついに北海道にも販路が開け、三田尻塩の名は遠く北海道まで及びました。
三田尻入浜式採かん
海水から「かん水」をとる浜作業

釜屋の内部

「かん水」を煮つめて塩の結晶をとる釜屋作業

地図

瀬戸内海沿岸の製塩地と三田尻塩の主な販売先

製塩技術の近代化と塩田の廃止

明治38年(1905年)には、塩専売法の施行に伴い、鶴浜の東南部に「三田尻塩務局」が、同42年(1909年)には「専売局製塩試験場」が設置され、製塩技術の近代化に大きく貢献しました。
戦後、外塩の輸入と「流下式製塩法」の進歩による内地塩の過剰生産のため昭和34年(1959年)に「塩業整備臨時措置法」が成立し、江戸時代から260年にわたり日本の塩業を支えた三田尻塩田の輝かしい歴史に幕が降ろされました。