周防国府
奈良・平安時代の役所建物があった場所(地区名をクリック)
多々良山の南の平地は、周辺よりもちょっと標高が高いので、農耕を行うには水の便が悪く、古墳時代より前の生活の跡はあまり見られません。逆に見れば、洪水などの被害にあいにくいので、周防国府のあるあたりは防府平野でも水害の少ない一等地だったのです。
では、
国府
とはいったいどのようなものだったのでしょうか。国府とは役所関連の施設やそこで働く人々の生活の場所も含めます。実際の政治や儀礼・宴会を行う政庁だけではなく、学校・役人(国司[こくし])の住居(国司館[こくしかん])・倉庫・市場などを含むのです。この国府では国司という役人以外に史生[ししょう]という書記官・事務員・技術者・雑徭[ぞうよう]として集められた一般の民衆など数百人が働いていました。
周防国府には政庁の周辺にいろいろな役割の違う建物群がちらばっています。小字[こあざ]名に「国衙[こくが]」「築地[ついじ]」など国府に関連する名前が残っていますので、小字名を建物群の仮の名称にしていますが、それぞれについて発掘調査の成果から見ていくことにしましょう。
このホームページ内で提供される
テキスト、資料、写真、グラフィックス、データ等の
無断使用を禁じます。
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan