埋蔵文化財センター
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第1部 調査員レポート
はじまり 銅と鉛のやわらかさ
-周防の国の緑釉陶器-
国府像 誕生仏
第1次調査始まる 釈奠
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銅と鉛のやわらかさ - 周防の国の緑釉陶器 -

 『緑釉陶器』と呼ばれる平安時代の焼き物がある。その名のとおり、緑色の釉薬をかけた陶器であるが、釉薬の原料が一風変わっている。表面を覆うガラス質は主に「鉛」。緑色を出す成分は「銅」。こう書くと、あたかも焼き物に硬いヨロイを着せているようだが、鉛や銅は実は比較的低温で溶けるやわらかい金属である。一般に言われる釉薬は1200℃を超える高温が必要であるのに対し、鉛を主成分とする釉薬は800℃程度ですむので、焼き物の技術が未熟な時代のわが国に、まず導入されたのが鉛釉だったのである。
 導入当時、平安時代の前代(奈良時代)の鉛釉はハデで、三色を色鮮やかに塗り分けた『三彩』という陶器であった。唐(当時の中国)の『唐三彩』を真似て作り始めたもので『奈良三彩』と呼ばれるが、それは通常の生活とは無縁の、水注・フタつき壺・枕など官特注の豪奢品であった。のち唐三彩に替わり『越州窯青磁』が輸入されるようになると、今度はその青磁色に惹かれ「秘色」と賞賛したわが国では、それに似た「緑」色のみを三彩から取り出し「緑釉陶器」として独立させた。器形も青磁を真似て食膳に上るような碗や皿を作るようになり、次第にそれが主体となって大量生産へと移行する。これが平安時代の緑釉陶器である。
 奈良三彩が朝廷で限定生産されたのに対して、緑釉陶器の生産地は全国に散らばり、その製品も広く流通した。とはいえ、生産開始当初の平安時代初期は一定の官の規範の下にあり、生産地も限られていた。一大消費地である平安京(京都)の近郊と、窯業の伝統国である尾張国(愛知県西部)、そして鉛・銅の一大生産国である長門国(山口県西部)の3ヵ所である。のちに生産地は広がり、平安京のある山城国から丹波へ、尾張から三河・美濃・近江へ、長門から周防へと、国を越えて拡大し、それぞれ個性的な緑釉陶器を焼く。ただ長門・周防の緑釉陶器生産だけは、他国とは異質であった。
 他の産地では、青磁に似せることや、うつわの頑丈さ、大量生産などを目指して、釉薬をかける前の土器(「素地」という)を窯でしっかりと焼き締める方向に発展した。長門・周防では、一貫して素焼きのやわらかい素地で通し、生産量・流通量も他産地の製品に比べて極端に少なかったことが、近年の発掘調査によってわかってきた。特に周防国の緑釉陶器は流通した形跡に乏しい。これは何を意味するのだろうか。
 これといった焼き物の伝統のない長門国で緑釉陶器が焼かれ始めた原因は、釉薬原料の豊富さ以外に考えられない。国家事業である銅銭の鋳造および銅・鉛の採掘が、当時いずれも長門国内で行われ、長門は全国の銅・鉛が集まる状況にあったからである。銅銭の鋳造所が長門から周防に移転したために、周防でも緑釉陶器を作るようになったのに違いない。銅・鉛に精通した技術者が、周防の国の緑釉陶器には深く係わっている。長門・周防の緑釉陶器が、青磁を意図したとは思えないほど、華奢でやわらかい印象を受けるのは、銅・鉛のやわらかさをよく知っていたからこそではないか。陶土よりもロクロよりも窯よりも、まず釉薬ありき。焼き物としての価値や生産効率を度外視した、独創的な焼き物が、周防の国の緑釉陶器といえるかもしれない。

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