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大道地区の概要

更新日:2021年2月8日更新 印刷ページ表示

「山口県百科事典」より

東に楞厳寺山(369.8m)、西に華北山(260.7m)の山地がつらなり、その間には平地が広がり水田地帯となっている。山口市との境には長沢池がある。
大道地区は花崗岩の地域が多く、その風化した土砂を横曽根川と河内川が運搬堆積し、繁枝砂丘が形成された.。ふるくからの土砂の堆積によって形成されたできた大海湾の干潟は順次干拓されて、現在の平野を形成するにいたった。山陽道筋で街村をなす台道市は江戸時代半ば宿があってにぎわっていたが、鉄道の開通とともに衰微してしまった。
繁枝砂丘の砂は瓶製造原料として採取された。現在跡地は宅地化が進んでおり、一般住宅のほかに県営アパート・山口短期大学などが建設され、大道駅を中心に開発が進みつつある。
大道で採掘される陶土は、古くから萩焼の原料土としてつかわれている。
奈良時代切畑の金山から銅を採掘し、長門鋳銭所に運ばれていたといわれる。
小俣地区には鎌倉時代から伝承されている「笑い講」という奇祭がある。この祭りはその年の収穫感謝と来年の豊作を占い祈願する神事である。

「続防府市史」より

切畑の千切峠を頂点にして、東西山麓の台地を除く低地はほぼ扇形をなして、南に広く開け、しかも南の一辺西部は柴山にて抱き、東部は開放的で海湾に面している。この低地は往古は概して海面であったとみてよく、面積約350町である。
この低地へ長年月絶え間のない流水の土砂運搬作用と、海辺砂土の吹き寄せとによって、小繁枝大繁枝両砂丘が形成され、その他は順次干潟の相を呈してきたのである。即ちこれを立証することの二、三を挙げて見れば、現在小繁枝砂丘に鎮座する繁枝神社前方低地には昔日の鳥居の跡がある。
これは建久2年(1191)当社が字下津令からこの地へ遷座されてからも、御神幸祭にはもとの御旅所であった字木床下の木船へ神幸され、そのとき船で海中の鳥居をくぐられたという社伝がある。
また字小俣から岩淵方面へ行くには神田から原へ渡舟で渡ったといい、現にそのあたりの田地を掘れば地盤下僅かにして貝殻の層を発見し得るし、往昔岸辺に繁茂していた楠の木の大木が土砂崩れによって海中に倒没したものが最近地下下水揚水工事中数多く掘り出された事実がある。
また、建徳2年(1371)10月7日、九州探題今川貞世が道行振りに「北の沿いていささかなる山路(佐野峠)となりて岩淵というところに出でたり、此方もなおなた嶋潟とて遠き干潟なり。云々」とある。なた嶋の名義の誤りは兎も角岩淵台地の地先が海面であったことを立証するものである。
大道地区の東・北・西三方を区切っている山々は主として花崗岩層であって、それが幾年月の風化によって小砂となり旺盛な流水運搬作用のため南へ南へと押し出されて海面を順次狭めて行って低地の沖積層を作った。そして台地際から順次開作が築立てられ現在の地形を形成したものである。

 大道地区の文化財

(1)史跡

柴山古墳、その他の古墳、金山の銅鉱、堂山の陶土、切畑の雲母(滑石)、窯業

(2)伝統芸能

国府の節(こおのぶし)、笑い講、十二の舞、大道文楽(人形浄瑠璃)
代神楽(舞)~繁枝神社、小俣八幡宮、玉祖神社

(3)先覚者

上田堂山(1758~1838)文教、福祉
近藤芳樹(1801~1880) 国学者、歌人
種田山頭火(1882~1940)俳人
その他

大道地区の現在

「文教のまち、福祉のまち大道」をめざし、笑顔あふれるまちづくりに取り組んでいる。

農業振興のため、ほ場整備や花き、特産の野菜づくりに取り組んでいる。

文教施設の充実、生涯学習の推進、福祉活動の推進を目指している。