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毛利氏庭園と毛利博物館

更新日:2021年2月1日更新 印刷ページ表示

毛利氏庭園

防長二州元藩主の住まい

明治新政府は、当初藩主は東京在住を命じる。やがて国許居住が許されると、毛利氏も旧領国に邸宅を設けることになる。元藩士井上馨(当時内務大臣、毛利家政協議会筆頭)等によって、気候温暖・空気清澄な、標高225mの多々良山の南麓が適地として決定され、30万平方メートルといわれる山林・松並木路両側の地も買収して、広大な屋敷となった。当主は元徳公(明治30年没)
平成8年、毛利氏庭園は、国指定名勝となる。(指定地域の面積庭園8万4千平方メートル邸宅4千平方メートル余)

毛利氏庭園全景

東京高輪邸

明治4(1871)年、毛利家は神田橋邸の替わりに、朝廷から芝の高輪邸を拝領する。大正初年ごろから元道公(元昭の嗣子)が住まわれたが、終戦後住宅・事務所・書庫を残して、他は処分された。現在は杉並区上萩に居を移され、邸跡は市街と化してその名残はない。

正月飾りをした東京・高輪邸の本門

正月飾りをした東京・高輪邸の「本門」

明治時代高輪邸で開かれた園遊会

明治時代高輪邸で開かれた園遊会

着工完成まで20年

この地は、梛・清水、森の下・堤の脇と呼ばれ、南に旧山陽道が通る景勝の地である。明治25(1892)年敷地の買収を終わり着工に取りかかるが、日清・北清・日露と戦役が続いたので遠慮して工事を中止し、大正元(1912)年改めて工を起こし、同5年7月完成した。総費用は当時の金で38万円、現在の貨幣価値では150億円ぐらいという。当主は元昭公だった。

 

慶応元(1865)年、毛利藩主最後の嗣子として、萩八丁邸に生まれる。
防府を永住の地と定めて、明治3年から三田尻御茶屋に居を定めていた、多々良邸が完成するや此処に移り、毎年の天機の奉伺で上京する以外、此処を出ることはなかったと云う。
昭和9年、夫人を失った後も、ひとり多々良邸にあって風月を友とした。昭和13(1938)年没する。

毛利元昭

毛利元昭

表門

毛利邸前バス停で車を降り、両側の松並木の路をたどると表門につく。城門を思わせる豪壮な総欅作りで、中央の大扉は主人と特別な人が通る時以外は開くことはなかった。
両袖には石垣の塀を設け、右の石垣はさらに延びて邸の南を区切り、外側に長池と呼ばれる壕がある。

松並木の路

松並木の路

表門

表門

路傍庭園

表門から本邸に通じる広い路の右側に梛川(なぎ)が流れてカエデの林、左は自然林を背景に数百本のツツジが配され、春は躑躅・秋の紅葉と閑雅・幽深の路が続く。
梛川の水は、ないだ清冽な水でお茶の水として賞され、茶人も愛用したと言う。庭内には梛木が植えてあり、なぎの名はこれから生まれたのだろう。
右手の石橋を渡ってゆるやかに左に曲がると本邸車寄。真直ぐに行くと梛原に出る。

路左側のツツジ

路左側のツツジ路左側のツツジ路左側のツツジ
紅葉
紅葉紅葉紅葉
雪景色
雪景色雪景色雪景色

梛原は海抜30~40mのなだらかな傾斜地で、中央を道が通り山王社・期山寺があった。明治41(1908)年此処に梛邸が建築された。明治44(1911)年明治天皇を迎えるため藁葺きを全面改装され、同年、明治天皇が九州西下の節、11月9・16日、往復路ともに宿泊所にされた。戦前は「明治天皇多々良行在所」として、国から史跡に指定されていた。(観覧禁止)

梛邸

梛邸

軒唐破風付車寄せをもつ、江戸期の御殿造の様式を取り入れた建築で、明治・大正の建築技術の粋を集めた殿堂である。木曽御料林のヒノキ・屋久島の神代スギ・台湾のケヤキ等、無比の良材が使用されている。
邸宅建坪約4000平方メートル、部屋数60、畳数780枚
元昭公がなくなると嗣子元道公は東京の邸を整理した後、梛邸に住まわれ地元の催し等に出られたという。

本邸

本邸

本邸間取り

玄関を入って右に折れると、二つの応接室がある、邸内唯一の洋風の部屋で、床には絨毯が敷かれ、椅子やテーブルが置いてある。廊下や部屋の床板はケヤキ、仕切戸の板は神代スギである。

応接室

応接室

本邸南棟の一階は大広間と主人の間となっている。
大広間(客殿)は三部屋からなり、合わせて42畳。天井は一段と高く格天井にし、最奥の18畳の間には大きな床が設けられ当主はここに座して客を迎えもてなした。
部屋の南側には畳敷きの広い廊下、さらに欄干付きの濡縁、中央に階段を設けて、庭を眺めたり出て散策したりすることができた。正月の賀、祭の直会い等大勢の客を迎える間で、戦後一時、結婚式場として利用されたことがあった。

一階大広間(客殿)

一階大広間(客殿)

二階書院

段が檜の角材という贅沢な造りの階段を上がって二階に出る。

本邸唯一の二階の間で3部屋からなり、全部で32畳。最奥12畳の間は主床と脇床に畳を敷き格天井張り、当主の座す間にふさわしい造りである。
南側の畳敷きの廊下からは、前景にひょうたん池の庭、遠く国府跡、さらに三田尻湾・江泊の山・向島などが眺望できる。

二階書院

二階書院

二階からの眺め

主人の間

大広間の次に主人の間である。控えの間(10畳)・主人の間(10畳)・主人の居間(12畳)・主人の書斎(11畳)の4部屋からなる。
主人の間と控えの間は、主人が客と会う間。
主人の居間は2部屋からなり、宝の間ともいわれる。大正5年大正天皇・大正11年貞明皇后・昭和12年昭和天皇・昭和31年昭和天皇・皇后両陛下が宿泊された間である。
此処から眺める南の庭は、本邸平庭最高の佳景。

主人の間

主人の間

奥方の部屋

主人の書斎の前の廊下を左に折れると奥方の部屋がある。
4部屋からなり合すと27畳、一間は仏間である。折上格天井を張り火頭窓を設けた立派な間である。

奥方の部屋

奥方の部屋

子供部屋

奥方の部屋の奥が子供部屋で、3部屋あった。今は展示室になっている。
南側の広い庭は、子供たちの遊び場だっただろう。

北棟の部屋(客間・食堂)

北棟手前の部屋(現事務室あたり)は客間、その奥は食堂(座敷き)だった。
食堂は、上の間は当主とその嗣子の間で、奥方といえどもここで食事をとられることはなかった。炊事場は本館北の別棟にあった。
廊下を突き当たると左に湯殿がある。ボイラー室は別の所にあった。

食堂

北棟の部屋(客間・食堂)

左右の丘を利用して、ひょうたん型の池(8000平方メートル)をつくり、北の小丘には山林的風致を加え、林丘の周囲を環状に水を流し、北からは飛瀑として、東からはせせらぎとして池に注ぐ。
池の周りの広庭には、石組・植栽・芝生・回遊路・石橋・四阿屋などを配して、重量感のある幽玄な遊歩地を構成している。
邸の内外には幾多の平庭が配置されているが、客殿・書院前の平庭は、平庭中最も豪華である。
庭内の樹木は松を主に250種もあると云われ、築庭時にはたくさんの老松があった。築庭は東京仙花園出身の造園師佐久間金太郎で、その子孫が長く世話をしていた。

庭園

庭園

庭園と多々良山

ひょうたん池南側から見た庭園と多々良山

中雀門から大王松の許を過ぎると平庭が広がる。客殿前はゆったりとした広い庭、主人・奥方・子供部屋前は縁端に、下駄摺石を置き飛石を連ね、灯籠・手水石や樹木を配して、それぞれの間にふさわしい庭が造られている。
なかでも巨大な主石に老松を添える主人の間前の庭は圧巻である。

客殿前の平庭

平庭

平庭

この庭は南側から眺める北の景色は美しい、前に博物館・左に本館・背景に多々良山がなだらかに横たわる。広い庭は邸内の作業や催し、また子供たちの遊び場だったようだ。
広場の東に昭和22年、昭和天皇がお泊まりの折、植えられたという松が2本たっている。

子供部屋前広庭

子供部屋前広庭

庭園をめぐる遣水は広庭の南縁あたりで、東を流れる小川からひきいれられて二つにわかれる。このあたりはクス・カシ・シイなどの常緑広葉樹にカエデやハゼが配されて、内苑とはやや異なる趣があり、春は新緑・秋は紅葉の美しい所。

野趣に富む庭

野趣に富む庭

平庭南縁を流れる遣水を渡ると、ひょうたん池に突出する岬に出る。径1mもあろう老松が聳え、四阿屋風の休憩所がある。
四顧すれば、北に本館・多々良山、南は眼下にひょうたん池、遠く防府の町と瀬戸の島山、東西は多々良山の緑の尾根が裾を引く。

あずまや

あずまや(四阿屋)

元は農業用溜池だった。ホテイアオイが浮かび、鯉が泳いでいる。平庭の南縁を流れた遣水はひょうたんの口部で飛瀑を作り池に注ぐ。石の反橋はひょうたんの首部に架かる。
ひょうたん池を前景に、四阿屋・反橋・西の庭・本館・背景に多々良山を移した景はよく紹介されるが、やはりこの付近が本庭園の主景といえよう。

ひょうたん池

ひょうたん池

西池畔の石畳は舟遊び舟等の船泊りだった。西池畔の庭は邸から舟着場に行く途中の庭で、丈の低いマツやツツジ等の灌木で構成している。ニオイザクラといわれる桜があり、花を嗅ぐと白粉の香りがする。この桜はここと宮中以外にはないといわれる。
藤棚の休憩所からは、芝生広場やひょうたん池土手のサクラがよく見える。

西池畔の庭

西池畔の庭

西方の小高い丘を開いた平坦地で、昔は乗馬の練習や園遊会などが行われた。周囲はにはたくさんのサクラがあり、南堤の桜とともに市内有数の桜の名所として、春は花見で賑わう。
一隅に昭和31年来宿された昭和天皇・皇后御手播きの2本のマツがある。

芝生の広場

芝生の広場

芝生の広場

芝生の広場

子供部屋の前の広場の東、道を隔てて杉や檜に囲まれて二つの建物がある。
手前の祖霊社は毛利家の始祖天穂日命以下先代にいたる祖霊が祭られ、春秋二回例祭が行われる。
奥の絵画堂は毛利元就の木像を安置し、元就以下先代の肖像画が掲げてある。

二社の境内には梛邸の名の由来かと思われるナギの木がある。ナギはイヌマキ科の常緑広葉の喬木で、葉は葉脈が縦にとおりベンケイノチカラシバともいわれる。社寺の境内にままあるが、この辺りでは珍しい木。

祖霊社

祖霊社

絵画堂

絵画堂

毛利博物館

昭和41(1966)年、毛利家は、本邸・庭園及び重代の家宝類を一括して、財団法人「防府毛利報公会」に寄付する。報公会は翌42年明治百年を記念し、本館の子供部屋を改造して「毛利博物館」を開館した。所蔵している資料はすべて毛利家に伝来したもので、総点数2万点、国宝4件、重要文化財9件重要美術品17件、山口県指定文化財9件、総計8917点。これらは平常展や年6回の特別展・企画展で、展示替えをして紹介している。収納庫と展示室は昭和62(1987)年改築され、展示室は2室ある。

博物館

博物館

第1展示室

第1展示室

第2展示室

第2展示室

所蔵品

四季山水図(国宝)春

四季山水図(国宝)春

四季山水図(国宝)夏

四季山水図()秋

四季山水図(国宝)冬

 雪舟の筆によるもで、雪舟芸術の最高傑作と言われている。
「山水長巻」の名で知られ、縦39.7cm、全長は15.92mにおよび、現在山水を主題とする画巻では最長といわれる。

古今和歌集

古今和歌集巻八(国宝)

我が国最初の和歌集で、延喜5(905)年、紀貫之らの撰進したものである。
本書は、源兼行筆とするのが定説となっている。巻八は現在完本として残る四巻の一つ。

史記呂后本紀第九

史記呂后本紀第九(国宝)

中国における正史の初めをなすもので、延久5(1073)年に大江家国が書写、点合、受訓をしたもの
である。

菊造腰刀

菊造腰刀(国宝)

刀身は26.5cm、鵜首造りで、反りはなく、表裏に薙刀樋を彫っている。銘はないが、当麻の所伝がある。

日本国之印

日本国之印(重要文化財)

印箱

印箱

印材はサクラ、印面は10,1cmの正方形で、高さは右側が4,1cm、左側3,5cmと不同である。日本国王印は明から足利義満に贈られた。原印は金印の筈で、原印が失われ代用として本印を作製し、日明勘合貿易に際して使用されたものと思われる。

 
毛利元就教訓状(重要文化財)

毛利元就教訓状(重要文化財)

弘治3年11月25日、元就は長男隆元、次男吉川元春三男小早川隆景にあて、三兄弟が仲良く協力して毛利の家名を大切にし、長くその繁栄をはかるよう十四箇条に亘る長文の手紙を書き送った。この手紙は有名な元就の「三矢の訓」のもとになったものと考えられている。

多々良山とゴルフ場

背後の多々良山は松が茂り邸の背景をなし、松茸がたくさん採れた。
昭和27(1952)年、山口カントリークラブがゴルフ場(18ホール)を開設し、山容も変わった。