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山口県防府市松崎町14-1
1.御本殿 2. 斎館(客殿) 3.紅梅殿 4.歴史観(宝物殿) 5.春風楼 6.観音堂 7.太鼓堂 8.御神輿庫 | 9.参集殿 10.駐車場 11.天神山公園 12.大専坊跡 13.茶室芳松庵 14.毛利元就像 15.放生池 16.扶桑菅廟最初碑 |
菅公廟
昌泰4(901)年正月、太宰権帥に左遷された菅公は、あわただしく西下された。その途次、周防勝間が浦に立ち寄られたことから、防府天満宮の歴史が始まる。
菅公は、延喜3(903)年2月25日なくなる。社伝は当時を次のように伝えている。
「身は筑紫に果つるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来たらん」と、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲がたなびいた。時の国司たちこれを拝見し館に公の霊を祀り翌年8月松崎の地に宝殿を建立した。扶桑菅廟最初という。
松崎大神縁起
約300年後の建久6(1195)年、国司俊乗坊重源によって平安風の社殿に改修されるが、たびたびの火災にあう。再建は大内・毛利氏の援助によって行われた。 現代の銅板葺入母造りの本殿・重層楼門・回廊等は、氏子や崇敬者の浄財で昭和37(1962)年に完成した。 | 扶桑菅廟最初碑 |
重層楼門 | 御社殿 |
表参道 むかしの山陽道に面して建つ高さ6m近い大鳥居は、寛永6(1629)年、萩藩初代藩主毛利秀就の寄進で、年代の明らかな石の鳥居では県下最古といわれる。 長い石畳の参道の両側には大きな灯籠が並び、明治初期まで東西に九つの社坊があり、一山の総号を酒垂山満福寺と称した。 以前は、松崎の名にふさわしく老松が参道を覆っていたが、今日は楠木を残すだけである。 | 大鳥居 |
参道二つの狛犬 上段のいかつい面をした、たくましい姿の狛犬は、大阪の石屋中村屋で造られた浪速狛犬といわれるもので、宝暦9(1759)年寄進の刻字がある。市内最古、参道狛犬では古い部類である。 | 青銅鳥居と狛犬 |
萩狛犬 | 萩狛犬 | 浪速狛犬 | 浪速狛犬 |
大専坊 表参道西側の最奥にある。 大専坊は満福寺の別当(長)で、神社創建とともに設けられたと云われる。室町時代10代足利義稙(よしたね)の宿舎となり、毛利元就(もとなり)は弘治3(1557)年大内氏追放の戦いに此処を本陣にし、下って、幕末には遊撃隊の屯所ともなった。(県指定史跡) 現代は建物の建造年は不詳だが相当古く、建物に桐・菊大内菱の紋が見える。 | 大専坊 |
芳松庵 | 大専坊にむかい合って円楽坊があった。 |
暁天楼は、元前小路の旅籠藤村屋の離れで、二階で維新前に高杉晋作、木戸孝允、坂本龍馬、伊藤博文、山県有朋等の尊王討幕の志士が密会し、討議をこらした所といわれる。後に天満宮境内に移築保存されていたが、朽損甚だしく解体され、新しくここに復元された。 階下には志士の写真等が掲げてある。 | 暁天楼 |
春風楼
萩藩10代目藩主毛利斉熙(なりひろ)は社頭に五重の塔の建立を思い立ち、文政5(1822)年、地鎮供養の祈祷を行ったが、諸事情で中止になった。明治の初め、五重の塔の建築を断念し、楼閣様式のお篭り堂に変更して春風楼が完成した。
床下木組み | 春風楼 |
歴史館(宝物館) 歴史館は昭和51(1976)年竣工した。 国指定重要文化財紙本著色松崎天神縁起、同じく源義経・大内盛見の奉納と伝えられる大鎧等、国指定重要文化財10点、県指定文化財4点、市指定文化財3点等、400点もの宝物が収められている。 | 歴史館 |
金銅宝塔 | 松藤蒔絵文台・硯箱 | 紫韋威鎧 | 浅黄糸威褄取鎧兜付 |
天神本地観音堂 本尊は十一面観音菩薩。 道真公の母はこの本地観音を信仰され、からだの弱かった道真公の成長をこれに祈られたという。堂は俊乗坊重源の創建と云われる。大内弘世の世に周防国三十三番観音巡礼二十四番札所となる。 社坊酒垂山満福寺抱えだったが、明治の初めに神仏分離で社坊が廃され、天満宮西隣の霊台寺(現満福寺)の抱えとなった。 | 観音堂 |
神牛と天神様 仰ぎ見る朱塗りの楼門正面の社号の額は、徳富蘇峰翁95歳の絶筆である。 天神様は学問の神といわれるが、農の神でもあった。また、菅公が丑年、丑の日に生まれたという伝承から、牛は大切にされ、御神幸祭の御網代輿を引く。 | 神牛像 |
天神水と放生池 手水舎の後ろの小さな池に、酒垂山から引かれた水がこんこんと絶えることなく注いでいる。天神水という。手水鉢は、元禄16(1703)年宍道玄蕃(しじげんば)の寄進で大阪で造られたもので、境内の石造物では古い部類に入る。 放生池(ほうしょういけ)は生き物を憐れむ池で、池畔に「古池や蛙飛び込む水の音」の芭蕉の句碑がある。文政3(1820)年三田尻(浜方)の俳人、有時庵此由(ゆうじあんしゆう)が建てたもので、境内ではいちばん古い句碑である。 | 芭蕉の句碑 |
天神水鉢 | 放水池 |
神殿前の青銅狛犬 萩藩7代藩主毛利重就(しげたか)は、寛政元(1789)年焼失した社殿すべてを造営した。拝殿両脇の青銅狛犬は、造営工事を司った国司就相(くにつかさもとすけ)等が完成を記念して寄進したもので、制作者は桑山の大楽寺の鐘と同じ、郡司信則、信之父子(市内鋳物師[いもじ]の出)である。 昭和27年の火災のとき被害を受け、大阪で修復している。 | 青銅の狛犬 | 青銅の狛犬 |
毛利重就(しげたか)公像と野村望東尼の碑 | 望東尼の歌碑 | 毛利重就の像 |
佐加多利公園と鐘秀台 重就(しげたか)公像前の梅の小径をたどると佐加多利(酒垂)公園に出る。 春は梅と桜、秋は紅葉で美しい。鐘秀台の展望所からは、南に防府平野、佐波川下流の展望が開け、北には天神山(高さ167m)の頂上がせまる。 佐加多利公園には国学の近藤芳樹(台道の人)・俳人の木鐘庵横沼素兄(今市の人)・田中年守(三田尻の人)等、多くの碑が建っている。 小径はさらに山麓を伸びて佐波川沿いの白坂公園に出る。 | 佐加多利公園から鐘秀台を望む |
天神山公園
客殿背後から天神山山麓の小道をたどると、国分寺の甍・国府の旧跡地・その向こうに三田尻湾がかすむ。山麓のつつじ・桜、眼下の梅林。小道をたどると桃玄洞・柳星甫・山頭火らの句碑がある。
酒垂神社前の広場は桜の名所。坂を登って鳥越の峠を越えると、佐波川河畔に出る。
天神山公園の桜 | 梅 | つつじ |
御神幸祭
寛弘元(1004)年10月15日、勅使を迎えて祭を行う。これが御神幸祭の始まりといわれ、ずっと陰暦の10月15日に行われてきた。(現在は11月の第4土曜日)
以前は近郷はもちろん島根・広島・北九州・四国等からの参拝客で賑わい、奉仕する裸坊は万を超えていたといわれる。御神輿と御網代輿は満月の光をあびて本殿を出て、勝間が浦の菅公繁船の旧跡に至り、還幸は深更になったという。殿様も国分寺前の桟敷で拝観された。
裸坊 | 奉納御神輿を担いだ裸坊 | 石段を下りた御網代輿 |
花神子 花神子社参式は、秋の御神幸祭を司る大小行司役が、その年の米で造った神酒を花神子(少女)によって供えて、御神幸祭の無事を祈る神事である。随員500人を共に、道程2Kmを進む社参行列は王朝絵巻を展開する。 昔は旧暦9月25日に行われた。(現在は10月の第2日曜日) | 花神子 |
牛替神事と節分祭
早春節分の風物詩。
秋の大祭の神輿を曳く神牛役を定める神事である
夕暮れ迫る社殿の中庭で、児童によって神籤上げが行われる。その外奉賛者寄贈賞品の福籤もあって、境内は参詣者でふくれる。昼は春風楼前で、年男による豆まきでにぎわう。明ければ立春である。
神牛 | 春風楼からの豆まき |
初詣
元旦の午前0時、初太鼓が朗々と社頭に鳴り渡ると楼門の大扉が開かれる。正月三ケ日の参拝客は40万人超えるという。学業成就・家内安全・交通安全・無病息災を祈って、京阪神、北九州方面からも訪れる。
西参道 文化の頃に整備された参道で、鳥居をはじめ両側に灯籠・狛犬等が建っている。石州街道や萩街道からの参拝者の道で、迫戸川にかかる太鼓橋を渡って、107段の石段を上る。太鼓橋は昭和30年頃に道の拡張で壊された。 | 西参道 |