国内第二位の大製塩地
7代目藩主、毛利重就公の時代には、「三田尻六ヶ所浜」で塩業者201軒、塩田の面積は防長両国(周防・長門)の半ばを占め、「瀬戸内十州塩田」においても「赤穂」(兵庫県)に次ぐ大製塩場として、日本の塩制史上大きな役割を果たしました。
三田尻の塩は主に山陰、北陸、東北地方に向けて「北前船」で積み出され、東北地方では塩のことを「みたじり」と呼んでいたとも伝えられています。さらに寛政12年(1800年)には、ついに北海道にも販路が開け、三田尻塩の名は遠く北海道まで及びました。
海水から「かん水」をとる浜作業
「かん水」を煮つめて塩の結晶をとる釜屋作業
瀬戸内海沿岸の製塩地(瀬戸内十州塩田)と三田尻塩の主な販売先
近代の三田尻と塩田の廃止
明治38年(1905年)、塩専売法の施行に伴い、鶴浜の東南部に「三田尻塩務局」、同42年(1909年)には中浜に「専売局三田尻試験場」、大正7年(1918年)には向島に「三田尻専売支局直轄工場」が設置され、三田尻は広大な塩田とともに塩業の一大拠点としての役割を果たしました。
戦後、外塩の輸入と「流下式製塩法」の進歩による内地塩の過剰生産のため昭和34年(1959年)に「塩業整備臨時措置法」が成立して防府市内の塩田全ての廃止が決まり、江戸時代から260年にわたり日本の塩業を支えた「三田尻六ヶ所浜」の輝かしい歴史に幕が降ろされました。